終身譲路、不枉百歩

屋内できちんと「分煙」するのは結構難しいより。

他人が「百歩譲って」と書くことにいちいち目くじらを立てたりはしないけど、自分から進んで「百歩譲って」を使おうとは思わない。

一歩百歩の話題(「一歩譲る」か「百歩譲る」か)です。
「一歩譲る」の場合の「一歩」を、歩数よりもむしろ「一段階」を表わす「一歩」(例:完成の一歩手前)に近いものとして捉えると、百歩というのは強調表現(あるいは誇張表現)でしょう。一方で、「N歩譲る」のもとの語であろう「譲歩」は、もともと「道を譲る」という意味であり、いわば不可算(「歩いて」譲るのではなく、「歩み」を譲るのであるから)だという見解も成り立ちます。
あるいは、表題の唐書では「一生道を譲り続けたとしても百歩にもならない(だから譲る気持ちが大切だ)」と言っているわけですから、そこから「たとえ百歩譲ったとしても」という慣用表現が出てくるのは、あり得るような気もします。この場合は、「一歩」よりも「百歩」のほうが原文の意を忠実に汲んでいるともいえます。
個人的には、そもそも「譲歩」は「自論を引っ込める」という意味しかなかったわけで、それを「相手の論のうちのひとつを認めると仮定する」という用法として用いている時点で、攻撃的な言葉になっていると感じます。つまり、その用法で使っている限り、「一歩」にも「百歩」にも、攻撃の姿勢が見えるのです。