指導要領

なんだか妙に反省とか謝罪とかが流行している昨今ですが、中教審が「ゆとり教育は失敗だった」とか言って反省していて、それに対して産経が「まだ反省が足りない」と吠えています。
【主張】ゆとり教育 まだ反省が足りぬ中教審
http://sankei.jp.msn.com/life/education/071031/edc0710310334000-n1.htm

「『生きる力』について十分な共通理解がなかった」「子供の自主性を尊重するあまり、教師が指導を躊躇(ちゅうちょ)する状況があった」などである。中教審文部科学省が、自ら積極推進してきたゆとり教育の反省を述べるのは極めて異例だが、問題は責任の所在が不明確なままであることだ。

 現行の指導要領では、毎週土日休みの学校5日制で減る授業時間以上に学習量を減らした。昭和50年代のピーク時より学習量は半減している。

 ゆとり教育の弊害は大きい。「自分で課題を見つけ考える力」が過度に重視され、基礎基本をおろそかにするような風潮を生んだ。

まあ、道徳教育の教科化の問題があるからどうしても産経はこういう論調になってしまうのですが、しかし授業内容を増やせば学力が上がっていいことづくめ、さあ計算力をつけさせよう、とか言ってるわりになぜ道徳は教科化なんでしょう。総合学習の削減には賛成のようですから、要するに「内容が不明確な時間の設置には反対」というのが産経の言い分なんでしょうか。おそらく。
 
産経はさておいて考えてみると、まず、授業時間はほとんど増えません。トータルで小学校5%増、中学校4%増程度です。総合学習を減らして算数理科などに充てるとのことですが、現状でもある程度反復練習や問題設定学習に時間は割かれていたわけですから、実質的な学習量はそんなには増やせないわけです。そこへ教える知識量だけ増やすとなると、どうしても特急授業になってしまいます。
その一方で、選択単元の削減には、上級学年の学校の立場と入試の立場から賛成です。たとえば小学校で「振り子と等速運動から1つ選択」みたいな授業内容にすると決められていたとして、中学校や高等学校の教員はどうするかというと、「習っていない生徒がいる」可能性はどちらの単元にもあるわけですから、両方を一から教える必要があるわけです。また中学入試問題を作成するとき、小学校の授業内容を出題範囲とするならば同様の理由でいずれの単元からも出題できないことになるわけです。
ただ、全ての時間について指導内容がガッチリ決められてしまうと、内容を逸脱した発展内容を教える場所がなくなってしまいます。たとえば「今年の学年は化学のネタはいける」となると、簡単な有機化合物の分子構造のレベルまでは紹介できますし、「このクラスは図形に興味がある」となると、生徒に筋道を考えさせてセンター試験程度の入試問題の解法にまでたどり着かせるという授業も可能になります(入試問題を解かせる第一の目的は自信をつけさせることです)。あるいは「計算力が弱い」となると、分数の計算問題を集中して解くこともできます。そういう、学習内容に縛られないあそびの時間を持たせようという発想が総合学習を設置した理由の一つになっていました。ところが実際は、そういうあそびの時間を生かすほどの基礎的な知識が足りないので結局教科学習に振り向けざるを得ないという現状だったのです。
 
数学の時間を増やすといわれても、知識量を増やす方向なのか、演習時間を増やして定着を図る方向なのかはまだはっきりしません。
理、数、外国語が大幅増 学習指導要領の中教審部会案(http://www.asahi.com/edu/news/TKY200710300325.html)では、旧課程(1989年告示)の時点と同じ程度の学習時間となるとのことですが、台形の面積公式や接弦定理が復活するのでしょうか。