時刻法制

法令形式の一つとして「勅令」がありますが、この形式の法令が制定されたのは明治19年からです。最初の勅令である公文式明治19年2月26日勅令第1号)は明治40年に廃止されていますが、この年に公布された勅令で現在も効力をもつものは、日本法令索引によれば、3本あります。

1. 本初子午線経度計算方及標準時ノ件(明治19年 7月13日勅令第51号)
2. 整理公債条例(明治19年10月16日勅令第66号)
3. メートル条約(明治19年 4月20日勅令)

このうちメートル条約は条約効力をもつものですから、現在では条約として公布される性質のものです(この勅令は大正14年に条約によって改正されています(条約第1号))。「条約」という法令形式が制定されるのは明治40年になってからですから、この当時は勅令で公布しました。また、整理公債条例については、国債ニ関スル法律の内容を補足するものとして現在でも効力を持ち続けているようです。
でもって、今から扱うのは、1番目の子午線・標準時に関する規定です。

本初子午線経度計算方及標準時ノ件
一 英国グリニツチ天文台子午儀ノ中心ヲ経過スル子午線ヲ以テ経度ノ本初子午線トス
一 経度ハ本初子午線ヨリ起算シ東西各百八十度ニ至リ東経ヲ正トシ西経ヲ負トス
一 明治二十一年一月一日ヨリ東経百三十五度ノ子午線ノ時ヲ以テ本邦一般ノ標準時ト定ム

日本でも、もともとは太陽を基準として(定時刻にせよ不定時刻にせよ)時刻を決定していましたが、それだと地域によって時刻が変わってしまうので、統一した時刻を設定する必要がでてきました。明治17年の国際子午線会議によってグリニッジ子午線を経度基準とすることが決定されており、日本もそれに従ったわけです。
 
なお、ウィキペディア日本標準時http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%A8%99%E6%BA%96%E6%99%82)では、

日本標準時は、1886年7月12日勅令第51号「本初子午線經度計算方及標準時ノ件」により、1887年1月1日から東経135度の時刻を日本の標準時(「本邦一般ノ標準時」)とすることが定められたものである。

とありますが、標準時施行は1888年でしょう。また、ウィキペディアグリニッジ天文台http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%88%9D%E5%AD%90%E5%8D%88%E7%B7%9A)では、

日本では、江戸時代以前には暦の計算や測量などには京都にあった改暦所という役所を通る子午線を基準(本初子午線)としていた。明治4年に日本の本初子午線は東京を通る子午線に移された。

とありますが、当時は時刻の統一のための本初子午線というよりは、地図作成のための基準線の側面が強かったのです。つまり、当時の主な地図作成方法だと左右の部分で歪むので、中心となる基準線が必要だったのです。伊能忠敬の頃あたりは京都を中度としていましたが、明治になると東京を基準とする地図が作成されるようになりました(たとえば陸軍参謀局「大日本地図」明治10年)。もちろん翻訳地図では、ロンドンやパリからの東経によって子午線が書かれていました。ウィキペディアでの明治4年というのは、おそらく川上寛が東京基準の地図を作成した年でしょう。
いっぽう、時刻決定の基礎になる天文観測をになう天文所は、もともと幕府天文方の管轄でしたが、明治になると廃止されました。一方、明治政府は当初、土御門に編暦権を与えましたが、のちに文部省や内務省が時刻・暦に関する業務を引き受けました*1明治4年は、文部省の設置により暦に関する業務が天文局に移管された年です。
しかし、明治4年に本初子午線に関するルールが設けられたとはいいがたく、まして「明治4年に東京に移された」というのは妙でしょう。東京市街ではそれより以前から浅草天文所による暦を採用していたのであり、京都では改暦所が維新時にすでに廃止されていたわけです。なお、気象観測に関しては、明治なかばまでは測候所があった京都の時刻を基準としていたようです。
なにしろ、当時の日本では、分や秒のレベルで全国の時刻を統一する必要はなく、ましてやそのために施設を設置する余裕はなかったはずです。ヨーロッパでも、標準時が必要になったのは、鉄道が長距離にわたって敷かれたことによるという理由が大きいです。日本では太陽暦を採用することになっても、「一日を等しく24時間に分けて時刻とする」とは決めましたが(太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス(明治5年11月9日太政官布告))、標準時についてはふれられていません。
 
なお、質問4-1) 正午は午前12時?それとも、午後12時?国立天文台)では、この規定での表記から考えて「午後12時は午前0時と呼べるが、午前12時は午後0時と呼べない」としています。確かにそのとおりですね。しかも正午は午前に属する、と言えそうです。ただし細かいことですが、問題の規定は太政官「達」ではなく太政官「布告」です。

時刻表【法令全書での原文は縦書】

午前 零時 即午後十二時 子刻 一時 子半刻 二時 丑刻 三時 丑半刻
四時 寅刻 五時 寅半刻 六時 卯刻 七時 卯半刻
八時 辰刻 九時 辰半刻 十時 巳刻 十一時 巳半刻
十二時 午刻      
午後 一時 午半刻 二時 未刻 三時 未半刻 四時 申刻
五時 申半刻 六時 酉刻 七時 酉半刻 八時 戊刻
九時 戊半刻 十時 亥刻 十一時 亥半刻 十二時 子刻

 
さて、最初の明治19年勅令に戻りますが、これにより、日本ではグリニッジ標準時より9時間早い時刻で統一する、という「本邦一般ノ標準時」が規定されたわけです。
でもって、このあと日清戦争があり、台湾などが日本領とされました。このとき、領土が東西に長くなるので時差を設定しました。

標準時ニ関スル件(明治28年勅令第167号)
第1条 帝国従来ノ標準時ハ自今之ヲ中央標準時ト称ス
第2条 東経百二十度ノ子午線ノ時ヲ以テ台湾及澎湖列島並ニ八重山宮古列島ノ標準時ト定メ之ヲ西部標準時ト称ス
第3条 本令ハ明治二十九年一月一日ヨリ施行ス

台湾付近では、本土よりも1時間遅くなるとしています。しかしこれではかえって不便だとなって、時差を規定した第2条が昭和12年に削除されました。
ところがそうすると、第1条はそのまま残るわけですから、標準時の名称が「中央標準時」ということになります。一つしか標準時がないのに「中央」とはいかにも奇妙ですが、この後は現在に至るまで規定に変更がないので、いまでも標準時の法令上の名称は「中央標準時」ということになります。

夏時刻法(昭和23年法律第29号)
第1条 毎年、四月の第一土曜日の午後十二時から九月の第二土曜日の翌日の午前零時までの間は、すべて中央標準時より一時間進めた時刻(夏時刻)を用いるものとする。但し、特に中央標準時によることを定めた場合は、この限りでない。

 
暦のついでに書くと、うるう年については、閏年ニ関スル件(明治31年勅令第90号)に以下のように規定されています。

神武天皇即位紀元年数ノ四ヲ以テ整除シ得へキ年ヲ閏年トス但シ紀元年数ヨリ六百六十ヲ減シテ百ヲ以テ整除シ得ヘキモノノ中更ニ四ヲ以テ商ヲ整除シ得サル年ハ平年トス

つまり、うるう年の計算は法令上、皇紀で行うわけです。たとえば来年はうるう年ですが、西暦2008年の2008が4で割り切れるからではなく、皇紀2668年の2668が4で割り切れるからうるう年だ、というわけです。
しかしその割には、但書の例外計算(100で割り切れるが400で割り切れないものは平年とする)の方法は、わざわざ660を引いて100で割っています。260を引けば十分なはずなのに不要な400を引いているあたり、わざわざ西暦に直しているわけで、かなり中途半端です。

*1:橋本万平「日本の時刻制度」など参照。