部屋の片付け3

部屋の片付け。今日こそは、と思ったが、やっぱりいただいた缶ビールとアジのタタキがウマい。塾講師として使っていたテキストも見つかった。買ったステサン(雑誌)も面白い。片付けは次回にまわそう。
 
そういえば昔(25年位前)、ゲームセンターや駄菓子屋などに置いてあったドンキーコングが好きだった。金がないから見てるだけだったけど。そのあと、ファミコンドンキーコングのプレイ画面を見ることができたが、しかし、何か感じが違っていた。「アーケード版」と「家庭用ゲーム版」の違いなんだろうと思っていたが、しかしアーケードのドンキーコングの画面をネットで見ても、やはり感じが違っていた。
私がゲームセンターなどで見ていたのは小学4年生のころ。そのドンキーコングの画面からは、当時の私の感覚が思い出されるのである。やや悲しい音楽と、マリオの特徴的な動き。そこからは、当時の私の「大人になる」ことへの漠然とした期待と不安感、芽生え始めた自我、生と死、昼と夜に対する感情、そして大人社会への関心や異性へのあこがれなど、そういう小学4年生のころの私の感覚が、ゲームセンターのドンキーの思い出とつながってくる。そしてその感覚は、ファミコンドンキーコングやアーケードのドンキーコングからは、なぜかよみがえらない。それらはなんだか、陽気なアクションゲームという感じなのである。
でもって調べてみたら、私がかつて見ていたのは、ドンキーコングではなくて、その偽物(パチモン)の「クレイジーコング」というゲームだった。クレイジーコングのプレイ画面を見てみると、「ああ、これだ」と懐かしく思った。「ボクもいつかは死ぬんだ」とか「自分の力がどこまで通用するのだろうか」とか、そんなことを考えていたころの感覚が、よみがえってきた。ほかにも、ディグダグの偽物の「ニュージグザグ」とか、当時はそういう偽物が多かった。
 
私にとってクレイジーコングは、武田鉄矢の「少年期」(映画ドラえもんの挿入歌)にも等しい。ああ僕は、どうして大人になるんだろう。ああ僕は、いつごろ大人になるんだろう。そんなことを感じさせる。
ゲームと懐かしさという点で言えば、一時期にのめりこんだゲームって、示準化石のように、そのころの様子が思い出される。
のび太の宇宙小戦争も懐かしい。ドラ映画の第1次黄金期。たとえばギルモア一味の悪だくみのうまさ・えげつなさも、子どもにとってちょうどいい効果だった。「いいぞジャイアン!あんな悪いやつらはぶっとばせ!」って思いながら観てた。
 
音楽にせよTV番組にせよ、懐かしいものは世代を確認させる効果がある。
たとえば自分が中学時代によく聴いた音楽について、後輩から「小学生のときに聴きました」と言われれば「ケッ、そんなガキにはわかんねーよ」と思うし、先輩から「高校生のときに聴いた」と言われれば「オイオイそんなオッサンの感性でこの曲を聴くなよ」と思ってしまう。
私にとって中学時代の曲といえば・・・BOØWYとか尾崎とか。末期だったけど。
 
そのあと、アルバイトで家庭教師や塾講師をはじめて、小学4年生を担当することがあった。時には、宿題をやってこない生徒を叱ろうとするんだけれど、しかし「彼は今、広がる世界に圧倒されているんだよ、宿題どころじゃないんだよ」という気持ちも強かった。今、君たちが見ているものすべて、聞いているものすべてが、君の一生を作り上げていくんだよ。
・・・しかし私は大した大人になれないまま、いやむしろ当時の感覚のまま、時間だけが過ぎてしまって、今に至る。まるで、幼虫がホルモンバランスを崩して、成虫にならずに幼虫加齢を繰り返すように。
 
さて一方のステサン。柳沢功力氏が「これからは、われわれのことをオーディオマニアと呼ぶ。マニアという語があまり感じがよくないということで、今までオーディオファイルという語を使ってきたが、しかしオーディオファイルという語からは、活火山のような燃えたぎる熱気が感じられない」と書いている。地震で部屋がめちゃめちゃになってリボントゥイーターが壊れたが、「この機会に、今までどうしても出せなかったあの音に挑戦しよう」と言って文章を締めくくるあたり、確かに「マニア」である。
新製品では、ナグラのプリメインに惹かれた。しっかりしたプリメインがほしいと最近思うので、非常に気になる。値段は240万だから無理だけど。管球王国の表紙にもなっている。
本気で買うのであれば、最近聴いて好印象だったラックスか。