春に向けての紅茶(4)

オーディオとか本棚とか、いろいろ買おうと思って、わずかながらお金も用意していたんですが、ところがスーツとか靴とか買ったら10万超えてしまって、計画は終わってしまいました。すみません。でもいいですねローク。
 
論文を書くときは、反対説の存在は常に念頭に置かなければいけません。具体的には、「自説に反対の立場をとる論者なら、自分の論文にどういう批判をするか」という視点をもって、書いたものを一度読み返してみる必要があります。ところが、たまにその手順が不十分なのではないか(あるいはしていない)と思わせるような論文もあり、つまりは、自説で頭がいっぱいいっぱいになっている様子がみえるような論文、反対説を理解しようとする気がなさそうな論文があるんです。
でもって考えてみると、ふつうは、その手の論文というのは原稿の時点で指導教員なり先輩なり同僚なりの指導・助言があるはずなのです。執筆者本人が書いていた時点では不十分であった、反対説から読むという作業を、指導教員などが本人の代わりに行い、いわばロールプレイのように反対説の論者の立場からアドバイスするはずなのです。
ところがこれも、思い当たる節がないわけでもなく、そういう執筆者は得てして、そのアドバイスも理解しようとしていないのではないか、という気がするのです。「○○さんが原稿を送ってきたので、これこれこういう風に言ったのですが、その○○さんから『そういう立場は既に文中で批判しています。読んでいないんですか』みたいに言われてしまいました。」なんていう話を、どこからともなく聞いたりするのです。
いやあなたがA説なのはわかっていますし、個人的にもその立場に近いのですが、しかしB説という有力説は厳然として存在して、その論者もしっかりとあなたの文章を読むわけで、だとすると「もしB説の立場に立てば、自分の書いたものはどう見えるのか」みたいなものは、ちらっとでも考えたほうがいいのではないかな、という感じでしょうか。