春の勉強

事務所の仕事が今年も忙しくてバタバタしていたのですが(その割には収入はちっともよくありません)、しかしその間にも研究者の世界では高度な研究が展開されているようで、刺激を受けました。まあ毎年同じようなことを書いているような気もしますが、私も勉強することにしました。初心に戻って、民法とか会社法とかの知識を整理してみます。
というわけで、受信メモ(kokekokkoのほうのid)は、4月にさかのぼって、条文の整理をしてみます。6月まではその流れです*1。検定・資格試験用の参考書をいくつかみつけたので、それを基に書きます。
 
ついでに、ちょっと思ったことを。
判例評釈にはいくつかのパターンがあります。たとえば、(1)特定の価値観や見解が先に立てられていて、それを基準に判例を批判的または好意的に評価するタイプ、(2)類似する現在係争中の事案へのあてはめを主眼に置くもの、などがあります。ここで(1)のタイプに対しては、「それはよくいえば論文、悪くいえば自説の吐露であって、評釈ではない」と批判されることもあります。ただこれも程度の問題であることも多く、たとえば「AはBすべきだ」という規範的な価値観はもちろんのこととして、「〜は○○という論点に属する問題だ」であるとか「この問題に対しては肯定説・否定説の2説で争われている」であるというものも広くいえば「特定の価値観や見解」であり、そういうものをすべて捨て去って心をカラの状態にすればいいのかというとそういうものでもなく、ある程度の学説上の前提が必要ではあるのです。しかしだからといって、「学説は要件不要説、責任要素説、共犯説に分かれている、共犯説が正しい、だから責任要素説に立つ判例は不当である」みたいな評釈だと、特定の立場を採る者にしか通用しないものになってしまいます。このあたりが、「論文で評釈を採り上げる」際の難しさにもつながっているのかな、という気がします。また、評釈では「判例がどういう立場に立っているか」を明らかにすることが多いのですが、それ自体が特定の価値観によっているわけで、ですから「この問題に関して要件不要説、責任要素説、共犯説という区分を立てること(あるいは持ち出すこと)自体が不当だ」などの批判がされることがあるわけです。これも程度の問題であるかもしれません。
ただ、「自説を長々と書きたててから判例を学説の一つであるかのように批判して、射程すら示していない」であるとか「その自説すら存在せず(あるいは文章中で矛盾していて)、気まぐれに判例の趣旨に賛否を並べているだけ」であるものは、少なくとも評釈ではないとは思うのです。さすがにそのような極端な例は見当たらないようですから、集まりは機能しているのでしょう。たぶん。

*1:もちろん、たまには「論文の書き方の指南では、数多くの失敗例を引き合いに出しているものの、自分の研究室の例は一切出していない」みたいな文章を書くことがあるかもしれません。いや、書きませんが。