形式論理と社会事象

たとえば、あなたがブログに何か意見を書いたとします。
それに対して、次のようなコメントが書かれた、としたらどうでしょうか。

あなたはそういう意見なのですか。何もわかっていないバカがよくそういう意見を言うんですよね。

確かに、形式論理からすると、「あなたはバカだ」とは一言も言っていません。「あなた」と「何もわかっていないバカ」の両者には包括関係はありません。
でも、書かれた側は腹が立ちますよね。
 
また、同じ状況で、次のようなコメントが返ってきたらどうでしょうか。

あなたはそういう意見なのですか。あなたはバカかもしれませんね。

これも確かに、形式論理からすると、「バカである可能性がゼロである」を否定しているだけです。バカではない証明はできない(バカではない例を挙げるだけでは不十分)以上は、誰もが「バカかもしれません」。ここでは「あなたはバカだ」とは言っていません。
でも、やっぱり書かれた側は腹が立ちますよね。
 
さらに、同じ状況で、次のようなコメントが返ってきたらどうでしょうか。

あなたはそういう意見なのですか。くだらない意見は読むのに疲れます。

これも確かに、形式論理からすると、「くだらない意見は読むのに疲れます」自体は真でしょう(そうでない人もいるかもしれませんが)。ここでは「あなたの意見はくだらない」とは一言も言っていないのですから、一般論を書いたに過ぎないと言われればそれまでです。
でも、書かれた側は。
 
社会事象を考える上で、形式論理を無条件に持ち出すというのは、怖いです。
 
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形式論理において真になる命題は、包括とかトートロジーとか、そういうものに限られるます。ですから、社会事象を考える際にはそのような命題はあまり考察の価値がありません(「定義から当然に導かれる」「当たり前のことを言っているに過ぎない」わけです)。スコットランドの黒い牛のたとえでいうと、数学者よりも天文学者のほうが、社会事象を語る上では「価値があることを言っている」わけです。
ところがここで形式論理を持ち出すと、天文学者の説明は穴だらけですから「その命題は偽だ」となります。
 
そしてここが大切なのですが、その命題に対して否定的な意見を持っている人たちは、ここで形式論理を持ってきがちになるのです。
つまり、牛のたとえだと、「スコットランドの牛は(少なくともイングランドよりは)黒くない」という信条・信念を持っている人にとっては、天文学者のような主張は「価値判断という高尚なレベルではなく形式論理という初歩的なレベルで誤謬がある稚拙な論理であり、こういう主張をする者は論理性に乏しい」という攻撃を生みがちになるわけです。
というわけで、社会事象に形式論理を持ち出すのは難しいのです。
 
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でもって、これは「社会事象の議論は論理的ではない(なくてもよい)」と言っているわけではないのです。
buyobuyoさんはid:buyobuyo:20060525#p1で次のように書かれています。

俺が思うに、普通に「すべての命題は相対的である。」というメタ命題を解釈する場合、そのスコープは、形式によって真偽が確定する恒真文や恒偽文を含まない解釈の方が自然に思われる。そのような命題をのぞいて考えれば、数理論理学の世界においても、「モデル」の違いによってすべての命題の真偽はどうとでも変動するわけであるので、そのような命題の相対性は成立する余地がある。

私もそのとおりだと思います。
「命題の真偽は、誰が、いつ、どのように判断してもひとつに決定される」というのは、「二等辺三角形は三角形である」程度の、定義から自明の事象にだけあてはまるものです。数理論理の分野で扱う命題はむしろ、高等学校の数学程度で学ぶ論理では解決できないような命題であることが多いです。
論理というのは、もともとそういう性質のものなのでしょう。

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上記リンクの元ネタを見てみます。
id:khideaki:20060522:1148314238
リンク先にいくつかある同種エントリのほとんどが「雑文」カテゴリに属しているのに対して、このエントリだけが唯一「論理」カテゴリに属しています。ですから、これを「論理的に」読んでみます。
前半では、要するに、「すべてのイズムは暴走する可能性がある」「フェミニズムはイズムだ」、よって「フェミニズムは暴走する可能性がある」と言っているわけです。論理的には真でしょう。宮崎哲弥もいうとおり、可能性を言い出せば何だって言えるわけですから。
ところが、「ここまでは論理的な話だ。」の後の部分では、「特定のフェミニズムAはうさんくさい」「特定のフェミニズムAはフェミニズムである」の2つから「フェミニズムはうさんくさい」を導いてますから、三段論法としては偽です。しかもここから議論が始まると、「Aがどの程度、フェミニズムを代表しているか」という、価値判断のカタマリのような泥沼に陥るのは明白なわけですから、この部分がなぜ「論理」カテゴリに属するのかがよくわかりません。
 
私も同じ土俵に乗って例を挙げると、以下のようになります。
id:khideaki:20060524:1148435825では

ところが、小さな羽と同じ重さを持った小さな鉄球を同時に落とすと、これは羽の方がゆっくり落ちる。この場合は、その形状が、空気の浮力という抵抗を受けやすいという条件が入ってくる。

と書かれていますが、これは空気の浮力ではないでしょう。両方の物体を同じ条件で真上に投げても、羽根のほうが上がる速さは遅いですから。
・・・という文章に、「hideakiさんの非科学性」とタイトルを打つようなものでしょうか。